ウルトラマンの正義と怪獣の「人権」

                              萩原 能久

「われわれが動物たちに苦痛を与えるのが許される理由が何かあるだろうか。私が考えつくものは何もない。われわれがそれに苦痛を与えるのが許されない理由が何かあるだろうか。そう、それはいくつかある。」      ジエレミー・ベンサム

 ウルトラマンシリーズ全編を通して登場する怪獣たちはその数600種類を越えるが、その大部分は巨大さと凶悪さのみが強調されて描写されている。そして彼らは、最終的にはウルトラの戦士たちが繰り出す必殺技の前にあえなく壮絶な最期をとげるのである。対するウルトラマンの側は、宇宙と地球の平和を守る「正義の味方」であるとの位置づけが定説化しているが、はたして本当にそう言い切れるであろうか。
 それにしても初期には騎士道精神にのっとって一対一で怪獣と対決していたウルトラマンも、シリーズ化され、番組の質としても、倫理的に見ても堕落の一途をたどった後期に至っては「われわれ兄弟は共に戦う」などという訳のわからない合言葉を振りかざしつつ、家父長主義的イデオロギー*を隠蔽しながら、集団リンチか「いじめ」よろしく、よってたかって怪獣をなぶりものにしているのである。だが紙面の都合上、この倫理学的、社会学的に由々しき問題には、ここではこれ以上立ち入らないことにする。

家父長主義的イデオロギー
 その能力がすぐれているわけでもないのに「父親」が家長として絶対的権力を欲しいままにすることを正当化するイデオロギー。たとえダメ男でも「長男」がその地位を世襲し、家庭内の女性や弟に対する抑圧が正当化される。西洋における絶対主義国家や日本の天皇制はこのイデオロギーに支えられて成立した。そうしてみると、高度な文明を誇るウルトラの国の支配構造は、以外に「前近代的」であることがわかる。

 そもそも、「正義」をふりかざし、正義の名のもとに戦うと称する輩が、いかにうさんくさいかは、今回の湾岸戦争*におけるアメリカの対応を持ち出すまでもなく、人類の歴史上、枚挙にいとまがない。(いわゆる「正戦論」*の問題。だからと言って、私は「戦う」、つまり力ずく(暴力)で問題を解決するということそのものを非難しているのではない。「正義の戦争よりも不正義の平和を」(キケロ)という絶対的・非暴力的平和主義は、現状の不正義に対する黙従と容認をもって、その不正義に荷担することになるからである。問題はウルトラマンが「無法な(?)」怪獣に対して行使する、それ自身「悪」である暴力が、どのような場合に、どの程度まで正当化されるかということである。

湾岸戦争 the gulf war
 イラクのクウェート侵略に対して、アメリカ軍をその実体とする多国籍軍が圧倒的物量の優位からあっという間にケリをつけた戦争。テレビゲーム戦争とも呼ばれる。クウェートは解放されたものの、イラク・フセイン体制もそのままだし、中東に山積する問題も何も解決されなかった。あの戦争は何だったんでしょうね。

正戦論 bellum justum
 ローマ時代以来、様々な思想家によって正当な戦争と不正な戦争を区別するための条件があげられてきた。「正当な理由」、「正しい意図」などがそれであるが、国際社会の現実には、その「正しさ」を判定する中立なレフリーなど存在しないのだから、正戦論はそれぞれの国家が自分勝手に遂行する戦争を正当化する口実として利用されただけである。


 そう考えてみると、少なくとも、シリーズ第一作目の「ウルトラマン」に話を限定してみても、そこに登場する怪獣をいくつかのレベルに区別して考える必要がある。

1)純然たる地球生物としての「怪獣」
 古代恐竜の生き残りか(ゴモラ、レッドキング、アボラス、バニラetc.)、はたまた突然変異か(ゲスラ、ケロニアetc.)、ウルトラマンに登場する怪獣にはこの型が一番多い。(ウルトラセブンでは異星人が多くなる。)こいつらが大暴れし、人間に危害を加えるケースは、例えば野生のひぐまが暴れているケースとほぼ同じと考えてよいかもしれない。そうならば、ウルトラマンや科特隊ならずとも、この怪獣を「退治」したところで、一見したところ法的、倫理的にさほど問題がないと思われるかもしれない。だが、考えてみれば、ここに登場するどの怪獣をとっても、他に同種の個体が複数生存している形跡の見られない、この地球上に生存する最後の一匹と思われる。そうであるならばWWF*も黙ってはいまい。絶滅の危機から救われるべく、ワシントン条約*の対象とされるか、あるいは国の特別天然記念物として丁重に保護されてしかるべきなのではないか。

WWF
 世界野生生物基金の略。決してプロレス団体ではない。

ワシントン条約
 正確には「絶滅のおそれのある野生動物植物の種の国際取引に関する条約」。 1975年7月1日発効。象牙のハンコやワニ革のハンドバックを欲しがるような成金趣味の俗物は、「ジラースのエリ巻き」にも「ジェロニモンの羽飾り」にも大金を惜しまないであろう。


2)ペットとしての「怪獣」
 野生の猛獣との類比がもはやできないのがジラース(その実体は製作費節約からくる「エリ巻ゴジラ」)である。こいつは若干精神状態に問題のある二階堂博士のペットとして、ひそかに富士五湖で飼われていたのである。ペットであるかぎり、純然たる「所有物」であるのだから、迷惑だからとそう簡単に、所有者の許可なく殺害することは法的に見ても許されまい。ライオンをペットとして飼っている変人に対して(数年前、千葉県でトラを飼って問題を振りまいていた僧侶がいた)、その「危険性」をタテに除去を要求できるかというと、微妙な問題である。そのライオンが他人にかみついたとかいう具体的な「侵害」ないかぎり、そういう可能性がある、つまり「将来の危険性」を主張できなくもないが、それで民事裁判上、必ずしも勝訴できるとは断言できない。

3)宇宙からきた「怪獣」
 相手が宇宙生物となると、話はもっと複雑になる(ベムラー、ギャンゴ、スカイドンetc.)。というのも、人間を「万物の霊長」として特権化しつつ成立している地球的倫理(その倫理によって人間は他の動物を食物に供したり、享楽のために狩猟することを正当化している)のヒエラルキー構造そのものを解体させる危険性がそこにあるからである。例えばある宇宙生物が外見上、地球の「セミ」や、あるいは「岩石」に似ているから、「セミ」、「岩石」と同じである保証は皆無であり、ひょっとして人間以上の知能を持った高等生物であるかもしれないのである。(だがこの種の「宇宙的同質性」の幻想、地球的見方・価値観の宇宙への投影は堕落した後期作品に多く見られる。)そうしてみると、人間に対しては「倫理」を、それ以外の動物には別の基準をという、地球倫理の根幹をなすダブル・スタンダード*の原則は宇宙生物に対しては崩壊する。(哲学者ノージックはこのダブル・スタンダード思考に「動物には功利主義*・人間にはカント主義*」というラベルを与えている。)他人の家を破壊することは許されないが、軒先の「蜂の巣」は壊し放題という原則はここに至って大きくぐらつくと言えよう。

ダブル・スタンダード
 他人がするのは許さないが、自分がするのはいいという日本人の、特に政治家にありがちな自己中心的二重基準。ほとんどの倫理学説はこれを悪とみなすが、もっとも「自分には厳しく、他人には甘く」という二重基準なら問題ない。

功利主義
 「最大多数の最大幸福」(J.ベンサム)を満足させるのが正しい行為であるとする考え方。快楽と苦痛を量的にとらえ、それを計算して、最も多く快楽をもたらす行為が正しい行為であるとされる。個人の幸福追求と社会全体の福利向上を両立させようとする発想で、自分さえよければいいという利己主義と同じではない。

カント主義
 他者を「手段」として扱う功利主義的な考え方を拒否し、他者を常に自己と同等の「目的」として扱う立場。

動物には功利主義・人間にはカント主義
 人間は、他人の利益のために利用されたり、犠牲にされてはならないが、動物は、もし利益の方が与えられる損失よりも大きい場合には、その場合にかぎって、他の人々や動物のために利用されたり、犠牲にされてもよいとする考え方。


4)侵略的意図を持った「異星人」
 そのことがさらにはっきりするのがこのケースである。彼ら(バルタン星人、ダダ、ザラブ星人、etc.)の知力、体力は総じて人類以上である。そうなると、少なくとも彼らを人類と同等のものとして、その「人権」に配慮しつつ接しないわけにはいかない。彼らの「人権」に対する配慮が、いかに「戦時中」とはいえ尊重されていたかどうか、真面目に反省される必要があろう。(ウルトラマンは第2話「侵略者を撃て」で、22億3000万ものバルタン星人をスペシューム光線の乱射によって大虐殺している。これはその実数算出に諸説があるとはいえ、最小限に見積っても「南京虐殺」*の1万倍以上の「ウルトラ大虐殺」である!!)

南京大虐殺
 1937年、中国大陸を「侵略」した日本軍は、12月13日、当時の首都、南京を占領し、以後二ヶ月にわたって捕虜のみならず一般市民にまで残虐行為を繰り返した。10才以上、70才以下の中国人女性で強姦を免れた者はひとりもいなかったという。その虐殺の犠牲者数は、一説には30万人(被害者の側たる中国の言い分)ともいわれるが、日本側の右翼・タカ派政治家や歴史家の中には、虐殺などなかったとか、犠牲者はせいぜい数千人から4万人にすぎないとする者もおり、論争をよんでいる。なおこのように書くと「教科書検定」にひっかかる。

5)一種の「人間」
 最後に忘れられてはならないのが「ジャミラ」のケースである。(あるいはそれに、第22話の「地底人」や、第4話の海底原人「ラゴン」も加えるべきかもしれない。)いかに怪獣化したとはいえ、ジャミラは元はと言えば、れっきとした「人間」である。全ウルトラマン・シリーズのなかで、私にとって、こども心にも、最もあわれに思われた、このジャミラを「怪獣」として抹殺するウルトラマンと科特隊の「正義」とは何なのか!見方によっては、われわれ地球人にとって、グロテスクな怪獣よりもいかにスマートに見えたとしてもウルトラマンこそ巨大化し、怪獣化した「人間」に他ならないではないか!!

 以上見てきたように、「人間は人間として平等に扱うが、それ以外の生物に対しては何をしてもよい」という人間中心主義からくる<地球的倫理>は、今日、世界中いたるところに存在している人間どうしの間での差別からも明らかなように、それ自身、遵守されていないばかりか、そもそも「人間」とそれ以外の生物の間にどのような線引きができるのかという根本的な点で問題を残しているのである。否、相手が純然たる人間の場合ですら、従来の「正戦論」を検討してみればわかることだが、敵を「人間」として認めない、人間扱いしないことこそ、平時では犯罪とされる人殺しが戦争においては正当化される最大の論拠なのである。

 私見では、こうした意味で、その侵略的意図の善悪を別にすれば、メフィラス星人こそ、「正義」の何たるかをウルトラマン以上に熟知していたのではないか。地球人に対等の人格を認め、「あなたに地球をあげます」という約束の言葉を地球人から得れないかぎり、やればできた武力的侵略には訴えず、またウルトラマンと同等以上の実力がありながら、「無益な戦闘」を自ら放棄して去っていったメフィラス星人。その「約束を守る」こと一途な義務論的倫理(deontological ethics)*はカントにも通じるところがある。もっとも、彼は地球がサトル少年*の所有物ではないこと、また未成年者との契約は取り消し可能--親権者などの追認が必要--であることを知らなかった点で、いかに倫理的に賞賛されても、いざ訴訟になれば勝ち目はなかったであろう。

義務的倫理
例えば「約束は守らなければならない」のはなぜかという場合に、そうしなければ人間どうしの信頼感がくずれ、社会がなりたたなくなるからというふうに、その行為がもたらす「結果」から行為の善悪を判断しようとする目的論倫理(功利主義もこの一種)に対して、約束を破るというその行為自体が、それ自身悪であるとするのが義務論の立場。

サトル少年
フジ隊員の、かなり歳のはなれた弟。メフィラス星人は地球人とはちがって高潔であるから、決して弟をダシに、本当の狙いはお姉さんだったなどと邪推してはいけない。



<はぎわら よしひさ、慶應義塾大学法学部専任講師(1991年当時)、専攻・政治哲学>

参考文献
・ロバート・ノージック、『アナーキー・国家・ユートピア』、嶋津格訳、木鐸社 1985
・デズモンド・モリス、『動物との契約』、渡辺政隆訳、平凡社 1990
・加藤尚武、『バイオエシックスとは何か』、未来社 1986
・H.T.エンゲルハート、『バイオエシックスの基礎づけ』、加藤尚武・飯田亘之監訳、朝日出版社、1989
・Singer, Peter, Animal Liberation, New York Review of Books, April 5, 1973.
・Nozick, Robert, About Mammals and People, New York Times Book Review, Nov. 27, 1983.




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